太鼓集団「島衆」

しまなみ地域を結んだ
まさに栄光の架橋
2005.11.12〜13

出演行事名
しまなみ海響祭

演奏場所
広島県豊田郡瀬戸田町
ベル・カントホール周辺

出演時間
12日
11:00〜11:15(島響)
18:00〜18:15(海響選抜)
13日
14:00〜14:20(島衆)
15:30〜15:50(海響)
17:00〜17:10(島響)
18:00〜18:15(海響)

演奏時間
12日
15分ずつ
13日
20分(島衆・海響)・
10分(島響)・15分(海響)

演奏曲
12日
海の豊饒(島響)
海の豊饒(海響選抜)
13日 流・豊楽祭(島衆)
彩祭しまなみ(海響)
海の豊饒 ショートVer.(海響)
海の豊饒(海響)

計12回・延べ41回
この数字は、3年間に亘り取り組まれてきた「新世紀・しまなみ海道事業」に関わる数字である。前者は「海響」としての合同演奏の回数。後者はそれに伴うワークショップ・合同練習の数である。これは事務局が主催及び手配して行われた数であり、プライベートでの数を合わせるとこの比ではない。つまりはこの3年間、関連団体のメンバーがどれだけこの事業に打ち込んできたかということがよく解る。「島衆」も負けず劣らず。

活動は各地へ
「しまなみ海響祭」から遡ること1年3ヶ月前、「瀬戸田町夏まつり」に於いて初披露を行った「海響」。その後もしまなみ沿線各地で合同演奏を重ね、次第に周辺地域あるいは県内外へと名前や活動ぶりが浸透し始めた。

集大成
さて、前述のように「新世紀・しまなみ海道事業」は3ヵ年事業である。3年目にあたる2005年度には、この事業の成果を発表する場として、大掛かりな太鼓イベントの計画が当初から模索されていた。事業開始から2年目も終わりに近づいた頃、大まかな案がまとまり、その後の作業はより緻密なものへと移っていく。そしてようやく具体案として企画されたのが「しなみ海響祭」である。ちなみに当初はこのイベントはサンセットビーチにて行われる計画であったが、秋の観光シーズンに開催することもあり、より多くの来場者が見込まれるであろうという観点から、ベル・カントホール周辺に変更になった。

もう1つの曲
半年後に控えた大イベントを前に、メンバーたちは新曲づくりに追われていた。この事業のコンセプトである「つくる、そだてる、つなぐ」の下、「しまなみ海響祭」に於いて発表・演奏する曲である。林英哲氏から曲づくりのイロハを学び、自分たちだけで創りあげるとの信念で取り組んでいた。しかし時には意見がぶつかったりと決して順調と言えるものではなかった。それでも各地で話し合い・練習を重ね、苦労の末に完成したのが「彩祭しまなみ」である。

近づきつつある本番
夏を迎え、イベントに向けて一段と忙しさを増す。合同演奏はもちろん、合同練習やワークショップ、更には有料コンサート練習にイベントのPRと、太鼓漬けの日々が続く。それだけではない。それはあくまでも「海響」としてのものであり、本番では団体各々のステージもある。その練習もこなさなくてはならない。「あと3ヶ月」、その言葉を聞いて長いか短いか、当時のメンバーは誰一人「長い」と答える人はいなかったであろう。

不安材料
「島衆」にとっての最大の懸案事項、それは自分たちの曲練習が皆無に近かったことである。「海響祭」では、大太鼓や「霞海」と「流」を組み合わせた新曲やニューバージョンの「豊楽祭」の演奏が予定されていた。これは約1年前から話し合いが行われていたものであるが、間近に迫った頃になっても完成度は0%に等しかった。そのような状況を打破するために9月の頭に合宿が行われ、手遅れに近い状況の中からようやく曲作りは動き出した。

体制整う
吹き抜ける風も涼しくなり、山々の木々も色づき始めた頃、合同演奏の配置が決定する。そして新曲も最後の詰めの段階に差し掛かっていた。更には「島衆」としての曲も週に2度の猛練習を重ね、形ができつつあった。林英哲氏、風雲の会メンバーも頻繁に瀬戸田入りするようになり、合同練習の間隔も縮まり、いよいよ記憶に残るイベントが幕を開けようとしていた。

いざ本番へ
本番2日前、この日から会場の準備が始まった。併せてコンサートのリハやNHKの生中継も行われる。いよいよ全員が本番モード突入となった。コンサートリハでは入念な指導が続く。オブザーバーとして参加していたD.Kも、その異様ともいえる緊張感の中、固唾を呑んで見守っていた。本番まであと2日、あと2日である。

天は味方するか・・・
本番前日は一転して雨模様。そんな悪天候にもかかわらず、前日同様、会場周辺では舞台設営やのぼりの設置など受入態勢が着々と進められていた。「島衆」も都合のつくメンバーはスタッフと共に作業に加わっていた。夜には実際の舞台上でのグランドフィナーレリハが予定されているが、天候次第では舞台に隣接した体育館でのリハとなる。皆不安げな顔で空を見上げる。夕方になり雨粒は一段と大きくなり勢いも増し、結局屋内リハの措置がとられた。果たして明日の天候は・・・。

夢叶う
降り続いた雨は止み一安心。朝一番で「島響」のステージリハが行われる。林英哲氏の挨拶の後、いよいよ「島響」による「海の豊饒」の演奏をもって「しまなみ海響祭」の幕開けとなる。この日は愛媛県側太鼓団体によるステージがメインとして執り行われ、夜には「林英哲プロデュース・スペシャルコンサート」が控えている。この日、出番のない広島県側太鼓団体のメンバーはステージの転換、交通整理など裏方仕事にまわる。翌日は逆に愛媛県側太鼓団体がこの作業を行う。

鳴り止まぬ拍手
夜は屋外から屋内に舞台を移し、ベル・カントホールでのコンサート。このオープニングで「海響」選抜メンバーによる「海の豊饒」の合同演奏が行われた。通常よりも高度な技を取り入れた「海の豊饒」。限られた練習の中でその要求された技をこなしたメンバーには脱帽である。会場からは拍手と歓声。しばらくの間鳴り止むことはなかった。

順調
1日目のプログラムを無事に終え、折り返しとなったイベント2日目は広島県側太鼓団体によるステージ。この日も快晴の会場は多くの人が詰め掛けた。イベント中は太鼓のステージの合間に郷土芸能もいくつか行なわれた。前後に出番のない太鼓団体メンバーはベッチャー太鼓からの依頼で、瀬戸田港から商店街を経て会場までベッチャーサンバを踊りながら練り歩いた。そしていよいよ「島衆」のステージとなる。

痛感
「島衆」のステージは広島県側団体のトリを飾る。まずは舞台最後部に設置されている大太鼓と、「流」用に配置された太鼓での掛け合い。その後、「流」へと移っていく新曲が1曲目である。2曲目は「豊楽祭」。桶ソロや締ソロにアレンジを加えてのニューバージョン。どちらの曲も本番までに十分な練習ができなかったことは事実である。メンバー自身、満足のいく仕上がりになったと言えるものではなかった。

笑顔
舞台上では多数の太鼓があらかじめ図面に書かれた位置に次々と運び込まれていた。各太鼓団体のステージがすべて終了し、「彩祭しまなみ」の演奏へとプログラムは流れていった。オープニング、各団体のソロパート、篠笛ソロ、そしてエンディング。これが大まかなこの曲の流れである。この曲に関しても直前まで必死の練習が続き、葛藤もあった。しかしその苦悩とは裏腹に、演奏したメンバーの顔は笑顔が溢れ、むしろこの曲の演奏を楽しんでいるかのように見えた。

有終の美へ
2日目も陽が傾き、グランドフィナーレを迎えようとしていた。前日に引き続き「島響」の「海の豊饒」から始まり、最後は「海響」と林英哲氏、風雲の会メンバーによる「海の豊饒」合同演奏である。その合間に風雲の会メンバーによるコンサート、上妻宏光による三味線コンサートが組まれている。「島響」はショートバージョンである「海の豊饒」を叩き終え、風雲の会のコンサートに移った。準備から数えれば4日目、ほぼ全てのプログラムを終え、後はグランドフィナーレでの演奏を残すのみとなっていたメンバー達。ゴールは目前である。

気の緩み
舞台での演奏はそれだけであっても、それに向けた準備も行なわなければならなかった。ステージ横の体育館内に太鼓を準備し、「海の豊饒」用にセットしていかなければならない。そして搬入順に太鼓も振り分けなければならない。その時間帯が正に風雲の会・上妻宏光両氏によるコンサートの時だった。しかしメンバー達は客席横や舞台袖に流れ、コンサートに見入っていた。見兼ねたスタッフがメンバーを集め注意する。「見たいのはわかるが、自分たちの役割を果たそう」。そう、何事においても与えられた事に対して役目を果たすのは義務である。気の緩みが垣間見えた一面であった。

感動の結末
残すは70人を越えるメンバーでの「海の豊饒」合同演奏のみ。事業当初から関っていたメンバーもいれば、事業途中から参加したメンバー、更には合同演奏をするのはこの「海響祭」が初めてのメンバーもおり、個々の想いは様々だったであろう。メンバー達は想いを太鼓にぶつけた。アンコールの嵐が起こり、「島響」とともに「しまなみ巡幸」を演奏して締めくくった。林英哲氏による参加団体の紹介が行なわれ、「しまなみ海響祭」の幕は下ろされた。

栄光の架橋
3年に及んだ事業も一応の結末を見た。しかしこの事業が終わったとしても今まで育んだメンバーの絆や友情は消えることはないだろう。この事業こそ、まさにしまなみ地域を結び1つにした栄光の架橋であった。

Reported by D.K


出演レポート
トップページ